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うつ病になって困ったこと ①感情の喪失

あすか

ライターのあすかです。 日々感じる生きづらさを、生きやすさに変えていけたらと思い、執筆しています。

こんにちは。ライターのあすかです。

今日はうつ病になって困ったことについて書いていこうと思います。

私はうつ病を発症して2年半ほど経ち、今も闘病中で自分のうつ病について分からないことも多いが、それでもこうして記事にまとめることを通して自分のうつ病を理解できれば、自分を理解することにもなると思う。

もしこの記事を見てくれている方がおられるのなら、この記事が現在のうつ病の当事者や支援者やそうでない人にとって役に立ち、人生の糧になればと思う。

鬱は突然にやってくる

それは、突然やってきた。

でも、思い返せば——いや、もっと正確に言うなら「ようやく思い返せるようになった今」なら、前触れはいくつもあったのだと思う。

ただそのときの私は、それに気づく余裕がなかった。

自分の心の声を聞いているふりをしながら、見ないふりをしていたのかもしれない。

疲れていることにも、傷ついていることにも、麻痺してしまっていた。

そうして少しずつ、けれど確実に、私は自分を見失っていった。

感情が感じられなくなったことについて

うつ病になって、一番最初に異変を感じたのは、「感情がわからなくなった」ことでした。

何を感じているのか、自分で自分の心が読めなくなるんです。

嬉しいのか、悲しいのか、怒っているのかさえわからない。

感情に触れようとすると、脳がショートしたように思考が止まってしまって、真っ白になる。

感じすぎて壊れないように、心が自動的にロックをかけているような、そんな感覚でした。

まるで自分の中に入れなくなって、ガラス越しに傍観しているようでした。

起きていることに対して何かを感じている“はず”なのに、心が動かない。

自分の感情に“当事者”として関われず、どこか遠くからただ眺めているだけ。

それがどれだけ怖くて、孤独で、苦しいことか——言葉にするのも難しいくらいです。

エピソード1:感情にアクセスできなくなった日

ある年の誕生日、友人たちがサプライズでお祝いをしてくれました。

手作りの寄せ書きのプレゼント、私の好きなケーキ、飾り付けされた部屋。

「きっと喜んでくれると思って」と、たくさんの気持ちを込めて準備してくれたのが伝わってきました。

でも、その場に立っていた私は、なぜかまったく心が動かなかったのです。

嬉しいはずなのに、何も感じられない。

頭では「これは喜ばしいことなんだ」と理解しているのに、心の中は無音。

喜ぶ感情が湧いてこない自分が情けなくて、申し訳なくて、ただ笑顔を作るしかありませんでした。

喜びたいのに、喜べない。

そのことが本当に辛かった。

「こんな自分じゃダメだ」と、誰にも言われていないのに、自分で自分を責めていました。

エピソード2:欲がなくなった日々

感情が消えていった後に、次に失ったのは「欲」でした。

「これをしたい」「こう生きたい」という気持ちがまったく浮かんでこない。

したいことが思いつかない。

何かを目指す力がわいてこない。

今日食べたいものも、行きたい場所も、将来の夢も、全部が霧の中でした。

その結果、行動すること自体がものすごく億劫になりました。

体が鉛のように重くなって、起き上がるのも一苦労。

やらなきゃいけないことが目の前にあっても、何ひとつ手がつかない。

ただ、静かに、少しずつ、自分が自分でなくなっていく感覚だけが残っていました。

一番苦しかったのは、自分の人生を自分の意思で動かせなくなったことです。

「どうしたい?」という問いが、もう意味を持たない。

選べない。決められない。

そのことが、こんなにも深く人を無力にさせるのだと知りました。

昔みたいに人生に主体的になりたい。でもそれは湧き出る意思ではなく、鬱特有の辛さの解放からくる反応的な感情。その焦りだけが募っていきました。

エピソード3:自分が亡くなったように感じた

あるとき、人に「あなたはどう思うの?」と聞かれたことがありました。

その問いは、普通ならなんてことのない、日常的な質問のはずでした。

でも私は、頭が真っ白になりました。

論理的な意見なら言える。でも、自分の「気持ち」を聞かれたとたん、脳がショートしてしまう。

何も出てこない。感情という情報が、自分の中から消えている。

ただ、処理しきれない思考だけが、ノイズのように頭の中をぐるぐると回り続けていました。

あの瞬間、私は「自分がいなくなった」と感じました。

おそらく、今まで感じすぎてきたのだと思います。

その感情の正体がわからないまま、重いまま抱え続けてきて、ついに処理しきれなくなった心が、感情を切り離してしまった。

もうこれ以上感じたら壊れてしまうから、心が守るために感じることを止めたのだと思います。

それは、水の入った500mlのペットボトルのようなものかもしれません。

重くはない。でも、それを長時間持ち続けていたら、手や腕がしびれて動かなくなるように。

感情も、持ち続ければ持ち続けるほど、心を麻痺させてしまうのだと思いました。

その状態では、感情を伴う意思決定がまったくできなくなります。

自分がまるで「感情というアプリにログインできない、不良のガラクタ」になったような、そんな感覚でした。

最後に:感情を失ううつの苦しさと、届けたい言葉

うつ病で感情がわからなくなるというのは、「悲しくなる」こととは違います。

「感じたいのに、感じられない」ことのほうが、ずっと辛い。

そこに誰かがいても、何かが起きても、反応できない自分が、自分であることに耐えがたい。

そしてその状態にある自分を責めてしまう——それが何よりも、苦しい。

けれど、そんな自分でも、今、生きています。

生きているだけで、十分に頑張ってるんだと、今なら少し思えます。

うつを支える立場にある人たちへ。

もし、あなたの優しさや言葉が届いていないように見えても、それは届いていないのではなく、「受け取れない」だけかもしれません。

でも、確かに心の奥に、あなたの存在は刻まれています。

いつかちゃんと受け取れるときがくるまで、どうかそばにいてほしい。

何も言わなくても、何もできなくても、そこに居てくれること自体が、救いになることもあるんです。

これは、感情を失った私が、それでも受け取りたかった想いのすべてです。

そして今も、少しずつ、もう一度感情とつながる旅を続けています。

あなたにも、あなたのそばにいる誰かにも、少しでも届きますように。

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