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自傷行為について、当事者として思うこと

あすか

ライターのあすかです。 日々感じる生きづらさを、生きやすさに変えていけたらと思い、執筆しています。

ようこそ。はじめまして。おかえりなさい。
ここまにブログライターの、あすかです。

今日はいきなりですが、繊細で理解されにくい『自傷行為』について、当事者の目線を踏まえて思うことをまとめていこうと思います。

「自傷行為についての理解を深めるー傷と痛みの奥にある本当の気持ちー」

ーなぜこのテーマを選んだのか?

「目を背けられるより、理解されたい」

はじめに、私は自傷行為をしてきた当事者です。

このテーマを通して、自傷に対する理解が少しでも深まったらなあと思っています。

なぜなら、自傷を知ることが、「私」という人間を理解することにつながるからです。

たとえ目を背けたくなる内容だったとしても、

理解されないことの方が、自傷よりもずっと痛い。

だからこそ、こうして話そうと思いました。

自傷行為って何?

自傷行為とは、

自分の身体を意図的に傷つけることをいいます。

リストカット、過食と嘔吐、髪を抜く、タバコの火で焼く、爪をむしるなど、形は人によってさまざまです。

多くの場合、自殺が目的ではありません。

苦しみから逃れるための、一時的な感情のコントロール手段として行われています

自傷行為をどうやって知ったか?

自分の場合、最初は意図的に自傷していて、今は感情が制御できなくなると衝動的に自傷に走るようになった。

自傷を知ったのは、中学の時の友達がリスカの痕をみせてきた時だ。

その友達は、あまりに平然と手首のリスカ痕を見せてきて、飄々としていた。

なんと言ったらいいのかわからなっかたが、「痛くないの?」とだけ聞いたのを覚えている。

その友達は、「手首の傷よりも心の方が痛くて、切っている時に痛みとかはないから平気だよ。」と言っていた。

当時人の感情に疎かった私は、友達が平気と言った言葉を言葉通りに受け取って、特にそれ以上それについて触れなかった。

今思えば、平気ではない。

心に負った傷が癒えずに、自傷に走って、一人で苦しみと戦っていたんだと思う。

本当は一人で戦えなくて、辛さから、助けを求めていたのだと思う。

でも、助けてなんて言ったら迷惑だろう?

だから、言葉じゃないところで助けを求めて、

言葉にならない繊細な願いを何かしらSOSとして出していたのだと思う。それが、自傷だった。

そのSOSが誰かに届くことを願っていたのだと思う。

その願いに気づけなかった私は、

その友達がそのあと誰かに願いが届いたんだろうか?救われたのか?

と思いを馳せながら後悔している。

自傷行為の流行

「リストカット」が社会的に注目され、特に若者の間で「流行」といわれるようになったのは、1990年代後半から2000年代前半にかけての日本が大きなきっかけです。

背景と流行の経緯

◾️1990年代後半

  • この頃、リストカット(自傷行為)は医療や心理の専門領域ではすでに知られていましたが、日本では「援助交際」「不登校」「引きこもり」などと並んで、思春期の問題行動の一つとしてメディアが取り上げるようになりました。
  • 特に**雑誌やテレビ、インターネット掲示板(例:2ちゃんねる)**などでの言及が多くなり、同年代の若者の間で「自分を表現する手段」「苦しさの発散手段」として共有され始めました。

◾️2000年代初頭

  • 携帯電話・ブログ文化の広がりにより、リストカットの痕や苦しみを写真や文章で表現・共有することが増加。
  • 一部では「リスカ=かまってちゃん」などの偏見的な見方も強まりましたが、それと同時に自傷行為が“見える化”された時代でもありました。
  • 「リスカ」「メンヘラ」などの言葉もこの頃に普及し、ネットスラングとして定着。

心理学・精神医学的には

リストカットは「構ってもらいたいから」という表面的な理解では片付けられない、苦痛の対処法・感情のコントロール手段として現れることが多いです。

私の場合、リスカを知ったのは学校の友だちからだったが、今は昔に比べてSNSが普及していることもあり、より自傷行為に触れることの機会が多くなったと思う。

それゆえに、間違った理解や偏見に晒されることも多いと思う。

だからこそ、より正しく理解されることが求められる社会になっているし、助けにもなると思う。

なぜ自傷してしまうのか?

原因説明
感情のコントロール不安、悲しみ、怒り、孤独などの感情を和らげたい
自分への罰「自分が悪い」「自分は生きていてはいけない」などの自己イメージ
誰かに気づいて欲しい無言のSOS、助けてというサイン

上記のように、自傷に走る人は傾向として、

心理として、自己嫌悪や罪悪感を抱えており、理解されにくいことや孤独からくる感情をコントロールするため、あるいは感じない感情を感じるために自傷という手段を用いる。

そうして自傷することで、生きているという実感を得る。

私にとっての自傷とは?

私にとって自傷は、

**“自分だけでも自分の苦しみを理解してあげる行為”**でした。

誰にも気づかれない、触れられない心の痛みを、

傷として「体現」することで、自分の存在を確かめていました。

社会にうまく適応できない自分を、

許すための罰でもあったと思います。

誰かに気づいてほしいという期待は、もう持っていませんでした。

期待すれば、絶望することがわかっていたから。

だったらせめて、

自分の意思で絶望に飛び込むほうがまだましだった。

絶望だけが味方のように感じることもある。

究極には、“死”が救いになることもある

それほどまでに心が追い詰められていた

自傷にどのような背景があるのかは人それぞれ異なってくると思う。

だからこそ、決めつけるのではなく、自傷している人として見るのではなく、

あくまで、その人として見てほしい。そうすることが一番その人が一番救われることになると思う。

誤解されやすいイメージ

自傷行為をしていると、「かまってちゃん」だとか、「甘えてる」と言われることがあります。

でも、誰かに見てほしいとか、気づいてほしいって思うことすら、

怖くて、期待なんてできなかった。

むしろ、隠してた。バレないようにしてた。

傷を見せたくてつけたんじゃない。

自分の心の痛みを、どうにか形にしないと、壊れそうだっただけ。

「理解されたい」というより、「勝手に決めつけないでほしい」。

それだけでも、少し救われる。

私にとっての自傷は、自分を保つための『儀式』だった。

悲劇を演じたいわけじゃない。

“悲劇のヒロイン”になりたいわけでもない。

ただ、そうしなきゃ、生きていけなかっただけ。

自傷していたとき、

自分が当事者だと思えない感覚があった。

傷つけているのに、まるでどこかで観客のように見ていた。

傷をつけ終わると、現実に戻って、

観客席に心を置いてこれた。

操縦者のいないまま、落ち着いた自分に戻れて、

むしろ**“適応”するための行動**だったんだと思う。

平和な世界に住む「村人A」を演じるために、必要だった。

本当の居場所がなかったから、作った。自傷は居場所だった。

孤独で、理解されなくて、

自分の中にいる“誰にも届かない自分”が、

暴れ出しそうになる。

その暴れる自分を、人に迷惑をかけないように、

誰もいないところで、満足するまで暴れさせる。

それが、私にとっての「自傷」。

表には出せないけど、

本当は、その自分ですら

見つけてほしい、理解してほしい、愛されたいと願ってる。

でも私はその「もう一人の自分」が嫌いで、

擬態の邪魔だとさえ思ってる。

だからこそ、誰にも頼れず、自分で処理するしかなかった。

自分はいつも、自分の世界に生きていなかった。

どこにも居場所がなくて、ずっと孤独だった。

だから、自分で自分に、

居場所と主導権を渡す必要があった。

それが、私にとっての「自傷」だった。

誰かにわかってもらえるとは思っていなかったけど、

わかってもらえたら、

少しだけ、生きやすくなるかもしれない。

周囲にできることは?

無視したり、見なかったことにしないでほしい。

同じ世界に生きる“村人”のように、

ちゃんとそこにいる私を、受け入れてほしい。

リスカの痕を「ないもの」にするよりも、

それを知ってもらえることが、今と過去の自分への“許し”になる。

心の傷を誰かに知ってもらえるだけで、

少しだけ、孤独じゃなくなる気がする。

無理に励まさなくていい。

正しい言葉が出なくても、

「ちゃんと見てるよ」って態度でそばにいてくれるだけでいい。

最後に伝えたいこと

自傷の痕を見て「過去に縋ってる」と思うかもしれない。

でも違う。

あれは、今と向き合っている証拠なんだ。

私はちゃんと、いまを生きてる。

正直、未来は見えていない。

未来なんて、私みたいな人間には、見る権利がないと思ってた。

でも、もしも――

この気持ちを誰かがちゃんと受け取ってくれるなら、

未来って、ほんの少しだけでも近づいてくるのかもしれない。

下手に未来を見たら、期待したら、

不安が大きくなる。

だから私は、未来を見るために“今”を生きている。

今の私を、ちゃんと見てほしい。

理想を押し付けずに、等身大の私を受け入れてほしい。

本当の私のことを、

私がまだ見つけられてない私のことを、

見つけてくれるだけでいい。

内なる破壊者をコントロールしても、嬉しくなんてない。

擬態しても、傷つくしかない。

でもその擬態は、形だけでも孤独でなくなるために、

一時の安心を与えてくれる。

本当の安心をつくれる日が来ることを願いながら、

誰にも見られず、今日も深海に沈み、

光から遠ざかりながらも、

窒息せずにもがいて、生きている。

ここまで聞いてくれてありがとうございました。

自分の言葉が誰かに届いて、誰かの助けになれたらな、と思います。

次回は『擬態』について書こうと思います。

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